
住まい再考

今年の松本平は百年ぶりの大雪に見舞われました。雪の多い地方では融雪の設備があったり、雪の捨て場が用意されています。しかし、雪の少ない地方の大雪でしたから捨て場がなく、道路の脇やわずかな空地にうず高く雪が積み上げられていました。
そんな邪魔な雪を早く解かすために、昔は薪を燃やした灰を振り撒いて雪面を灰色にし、太陽の熱を吸収させ雪を解かしました。しかし、家庭でまきを用いなくなった今日は、そんな風景も見かけなくなってしまいました。
最近見掛ける融雪の方法で特徴的なのは、道路に雪を投げ出して解かす方法です。日光で暖まった舗装道路に投げ出された雪は、またたく間に解けて流れてしまいます。道路は濡れる程度で道路には何の変化も残りません。解けかけた雪の固まりを通りがかりの車が砕いて雪解けを早めてくれます。これは舗装道路であるがゆえの融雪方法で、昔では考えられなかったことです。
昔は「道が悪い」という言葉があって、歩き憎いでこぼこ道や、特に濡れた道路に使われた言葉でした。土の道は雨や雪によって水溜りができて歩き憎かったり、泥んこで履き物を汚したり、通りがかりの車に泥のはねを飛ばされる心配があったからです。そして濡れる度に道路にでこぼこが増え、道を悪くしました。ですから今日のように道路に雪を投げ出して雪を解かすということは決してしませんでした。路面に水を撒いたのは、夏の夕方、道路面の暑気を発散して涼しさを味わったり、道路の砂埃を押えるためでした。
今日は、道路が舗装され、そして整備され水溜りなども見かけなくなって、「道が悪い」という言葉も過去のものになってしまいました。しかし、その当時は、少しでも道が悪くならないように気を配ったり、悪くなった路面を整えたりして大事に道路を扱ったのです。道祖神を祭ったのも、自分たちの道が守られ、倖せをもたらす良い道でありますようにと願った証です。その微笑ましい道祖神の姿を見る時、当時の人達は、道にどんな思いを持っていたか想像されます。
今日の道路は機械でつくられ、自分たちの手の及ばないようなものになってしまいました。同時に、親しみの乏しい道路にもなっているようです。人の住まいとの係わり方は変りましたが、人の道路への係わり方もこんなにも変わったことを改めて教えられました。
降幡廣信














